何に粘っていたのか

一年を無駄にしたと書いてみて、それはあまりに、自分に失礼だと思った。

 

私の人生に無駄などないし、回り道に思えるならば、その回り道の大切さに気づけないだけで、短絡的に無駄と決めつける自分の、思慮の浅い態度を改める方が有意義だ。

 

とにかくなし崩しとか、ダラダラとか、なんとなくとか、そのうちとか、とりあえずとか、そういう生き方が、もう嫌なんだという事はハッキリした。

 

トラウマを解決しなければ、彼が変わらないなら、いますぐ、どういう方法を使って解消していけるのか?の話し合いがなされて欲しい。

向き合わないといけない。という感想は内観でもないし解決ではない。

じゃあ具体的に自分は何に気づいて、何が問題で、どうしてそれを問題だと感じるのか、その問題を変化させる事は本当にできないのか?そもそもその問題を解決したいのか、、手探りでもそう言った話を、議題とするならば、一緒に考えるという理由もあった。

 

それぞれの問題(実際は問題に仕立て上げる自分の思考かな)を一緒にクリアしていこう!という話をするときは充実感がある。

だけど、日常のルーティンの中では、一昨年、昨年の彼の嘘ばかりが、その月につかれた嘘がわかってしまって、どうにもならない怒りと呆れと哀しみがとまらない。

 

それは自分にも原因の半分があると思うから粘ってきたけれど、その部分を彼が私に言えるようにはならないし、彼の自己開示の無さとコレをどうにかしなければ変わらないという思い込み、私のダラダラと遅い展開は我慢ならない、今解決したい!という気質が相反するので、やっぱり分かり合えなくて、別れは仕方ないのかな。

 

どちらが悪いわけではなく、来世繰り越しで良いやという人と、何としても今世で人間終わりたいという人との差異かな。